N.SEMINAR「感じる、発信する、やってみる、反省する、のループがプロジェクトのデザイン」馬場正尊

新しいまちづくりを学ぶために

設計事務所「オープン・エー」代表の建築家を本業に、都市の空地を発見するサイト「東京R不動産」の運営、東北芸術工科大学教授を務める馬場正尊氏。今回の記事では馬場氏の様々な事例と共に、プロジェクトのつくり方や、経験から学んだこと、行政主導などに依存した「まちづくり」ではなく、馬場氏が提唱する、新しいまちづくりの形「エリアリノベーション」についてご紹介し、地域活性化のヒントを学びます。(この記事は8月8日にオンラインで開催された、奈良クラブ主催、第10回N.SEMINARの講演内容の一部を、奈良新聞社が記事化し編集したものです)

馬場正尊(ばばまさたか)

1968年佐賀県生まれ。1994年早稲田大学大学院建築学科修了。博報堂、早稲田大学博士課程、雑誌『A』編集長を経て、2003年オープン・エーを設立。都市の空地を発見するサイト「東京R不動産」を運営。東京のイーストサイド、日本橋や神田の空きビルを時限的にギャラリーにするイベント、CET(Central East Tokyo)のディレクターなども務め、建築設計を基軸に、メディアや不動産などを横断しながら活動している。

はじめに

僕は「まちづくり」ということを「エリアリノベーション」という言葉で呼んでいる。今日は、その「エリアリノベーション」にたどり着くまでの、プロジェクトの進め方などについて詳しく話したいと思う。

僕はオープン・エーという設計事務所を経営し、一軒家の設計や古い建物のリノベーションなどを十数年間つくってきた。最近はパブリックスペース(公共空間)の再生の取り組みに興味を持っていて、点のリノベーションを面に広げ、パブリックに推移させていくプロジェクトなども進めている。

馬場氏が手がける最近のプロジェクトの一部

色々な事業に関わってきた僕が、一般的な建築家と違うことは「東京R不動産」という、不動産仲介のウェブサイトをつくったということだ。

「東京R不動産」は、不動産仲介サイトではあるけれど、僕は「メディア」だと考えている。そして、僕の中では「メディア」がプロジェクトを始めることが、「まちづくり」の大きな武器になると思っている。

プロジェクトの原点

「メディア」が「まちづくり」にどう関わるのかを話す前に、僕が新しいプロジェクトを作る原点から振り返りたいと思う。

建築業界は30代中後半でも若手と言われる、遅咲きが約束された業界だった。当時、20歳になった僕と仲間たちは、いつまでたっても自分の表現ができる気がしないと感じて「自分たちでメディアを作ろうぜ」と、部活のノリのように「A(エー)」というタイトルの同人誌の、小さな「メディア」をつくることにした。

馬場氏と仲間たちが作成した同人誌「A」

「A」は「architecture(建築学)」の頭文字だけれど、「はじまり」や「art(芸術)」、「anonymous(名前を明かさない)」な存在、そんな意味も込めて、当時の僕たちはワクワクしながら作った同人誌だった。そして、色々な場所へ取材に行き、たくさんの経験を積むことができた。

「メディア」の重要性に気が付く

その後、僕は建築を違う分野から見てみたいと思い、いったん建築から離れ、広告代理店の博報堂へ就職することにした。建築業界はプロジェクトをお願いされる側だが、広告代理店はプロジェクトをつくる側にいるので、上流にいると感じたからだった。

だが、就職して初めて、代理店は「メディア」がつくれないことに気がついた。僕は自分の「メディア」を持つテレビ局や新聞社、雑誌社がすごく羨ましいと感じるようになった。

たとえ小さな同人誌だったとしても、自分のメディアを持つことができた学生時代が良かったなと思うようになった。そして、社会人になってからも仲間たちとともに同人誌を細々とつくり続けていた。

そんな時に、転機が訪れた。ある出版社の社長と、仕事の打ち合わせの機会を得たのだ。社長はサブカル雑誌の編集長もしていたので、僕は同人誌を雑誌にするためのプレゼンができないだろうかと思い立ち、前日に徹夜で資料をまとめた。

仕事の話のあと、社長に時間をもらって「都市とサブカルチャーを繋ぐメディアを作りたい」と、同人誌の紹介をしたら、「面白い。50ページ、フルカラーで作ってきてくれたら、案外できるかもしれないよ」と言ってくれた。

その頃の僕は雑誌の編集経験はなかったので、「雑誌をつくれるかもしれないぞ!」と仲間たちをかき集め、3ヶ月後に50ページのモデルページを完成させ、実際に雑誌をつくることができた。

それから広告代理店を3年間休職し、何の経験もない僕が編集長として雑誌の仕事をすることになる。魔が刺したように、前日に徹夜で書いた企画書が僕の人生を大きく変えた。

馬場氏の持ち込みから誕生した雑誌「A」

構想や妄想を視覚化する大切さ

2000年、この雑誌で『東京計画』という特集を掲載することになった。東京の残地再生計画として、東京の余った土地や高架下などの隙間で何ができるかなどを考えたものだった。これをきっかけに様々な仕事や相談を受けるようになった。

企画書は読んで捨てられることが多いが、雑誌という形は妙な力を帯びる。構想や妄想をいったん画に落とすことは、とても重要だと学ぶことができた。そして、「メディア」はプロジェクトのドライバーになることも気がつくことができた。

「メディア」をつくることで、社会に何かを提示でき、それはプロジェクトを動かすきっかけになる。この気付きは今でも続いていて、僕はプロジェクトを動かすきっかけとして、まず本を書くというパターンを実践している。

雑誌をつくったことは収益面では良くなかったけれど、仲間とプロジェクトをつくる経験ができた。「メディア」をつくることにただ邁進したことは、今後の僕の活動や、プロジェクトのつくり方に影響していく。

雑誌「A」の特集

海外から学んだこと

30歳を過ぎて、また建築をしたいと思った僕は、まず本を書くためにアメリカへ取材に行った。僕はそこで「リノベーション」というものに気が付くことになる。

その一部を紹介しよう。

ロサンゼルス郊外にあるチャンピオンロード(元中華街)は、外見はガラガラだけど窓から中を見ると、若い人たちがギャラリーをつくっている。

チャンピオンロードのギャラリー

廃墟化した商店街を、その人たちのゲリラ的活動により、徐々にギャラリー街へとエリアが変わっていく。行政指導でも何でもなく、若い人たちの手で変わっていくことが羨ましいし、かっこよくて僕も日本で挑戦してみたいと思った。

もう1つ。郊外のブックカフェに人が賑わっていた。気になってマスターに尋ねると、もともと町の古本屋を営んでいた老夫婦が店を閉めることになって、古本ごと譲ってほしいと頼み事業承継したらしい。

古本をそのまま店のインテリアにして、カフェをつくりブックカフェになった。そのような町の物語も継承したからだろうか、多くの人が訪れる町のコミュニケーションのハブのような空間になったという。

この時に「リノベーション」、つまり、町やその建物の物語も継承することの重要さに気が付くことができた。

コミュニケーションのハブになったブックカフェ

最初の「リノベーション」

そのような気付きがあると、自分でも挑戦してみたくなる。

まずは自分の事務所からつくろうと思い、東京で「リノベーション」できる物件を探して、とある裏通りの駐車場を見つけた。大家さんに交渉し許可をもらい、仕切りの壁を壊し、壁を白いペンキで塗っただけだが、これが僕の最初の「リノベーション作品」になった。

資金はなかったので、当時200万円の借金をして挑んだ。今考えるとこの一歩を踏み出しておいて本当に良かったと思う。このことが、後の僕にたくさんの仕事を運んできてくれた。

小さくても良い。どんな企画書よりも、1つの事実、1つのファクトからしか物事は始まらない。

「リノベーション」された事務所

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